LOGINマテアが男の天幕で寝起きするようになってから、五日がすぎようとしていた。
その間マテアがしていた事といえば、移動の間をぬって洗濯に針仕事に掃除。(食事の支度である薪集めや水くみ、材料の配布とかは端女や下女の仕事で、火を扱えないマテアにかわってレンジュの食事はユイナが作ってくれている)天幕を張ったりたたんだり、荷物を整理したり広げたりというようなことで、本来の目的の方はといえば、全く進展がない。
進展させようにも男は夜が明けるずっと前に天幕を出て、夜中すぎまで戻らないのだ。
昼間どこで何をしているか、マテアは知らない。夜しか接触する時間はないというのに、マテアは昼の仕事ですっかりくたびれて、戻ってくるのを待っていられないのだった。
いつの間にか眠りこんで、気がつけば朝だ。夜明け前、ユイナに起こされ目を開いたとき、もう男はいなくなっている。くやしくて、本当にくやしくて。
今夜こそ、とマテアは思う。見たことはないけれど、あの男だって寝ているはずだ。起きたとき、敷物の上に横たわっていた跡がある。そうして眠っているときは、あの見るだけですくんで動けなくなる剣だって、手元から離しているはず。
今夜は絶対に眠らない。
マテアは固く心に決めて最後の一口を飲み下すと、椀を持って天幕の外に出た。決意を悟られてはいけないから、いつものように椀は地に伏せる。天幕の入り口近くに焚かれた火に水をかけ、踏み散らして天幕囚へ戻り、被り布を上掛けにして横になった。
頭を枕につけた途端、ひたひたと寄せる波のように去来する睡魔に何度欠伸を噛み殺したか。そうしても男は帰ってこない。体が重くなってきて、今夜もあきらめるしかないかと思いかけたとき。仕切り布が上がる気配がして、外の冷気が前髪を震わせた。
がちゃりと金属同士が擦れあう音が入り口付近でする。薄目を開けてそちらをうかがうと男が腰の留め金を外し、剣を敷物の下に敷きこんでいるのが見えた。
今までああしていたのか……五日前と比べ、天幕内に漂う死臭は格段に薄れている。いくら疲れきっていたとはいえ、どうりで存在に気付かず眠り続けていられたは
長い夜がようやく明けた。 男が天幕から姿を消してやっと目を開けることのできたマテアは、額に浮いた汗をぬぐう。 横になっていただけなのに、重い疲労感にめまいがした。起きていることに気付かれたくないと、ずっと同じ体勢で身じろぎもしなかったため、下に敷きこんでいた腕が痺れて感覚がない。両肘に力をこめ、ぐっと上半身を起こしたが、そのまま横倒しになりかけて、あわてて支え手をついた。 なんと長い時間だったか。夜は、こんなにも長かったろうか。 男が帰ってきたのは夜中を回っていたはずだ。そして今は夜明け前。ほんの数時間の出来事というのに、1分1秒を数倍の長さに引き延ばされたかのように、とてつもなく長く感じられた。 月光界の時間にして三百年近くの歳月を生きてきたマテアだったが、こんなにも時間の流れを遅く感じたのははじめてだった。 時間の流れが日によって変化するなどといったことはあり得ないので、それが極度の緊張によるものであったというのは疑うべくもない。意識があることを気付かれたくないと、必死だった。でも、なぜあんなにも知られたくなかったのかについて考えると、よくわからなかった。 ふう、と息をつく。 考えてもしかたない。ともかく、昨夜は失敗したということだ。また今夜挑戦すればいいだけのこと。 膝でたわんだ上掛兼被り布をぱたぱた振って宙になびかせ、おおまかなほこりを払ったところで四つ折りにする。朝起きたらまず何をしなくてはいけないか、それが済んだら次は何をするのか、手順はすっかり身についていた。 手頃な大きさにまとめ終えた布を脇へ置き、次に男のために用意してあった敷物をたたもうと、そちらを向く。そうしてはじめてマテアは自分の枕元に置かれていた数枚の織り布に気付き、軽く目を瞠った。 横になる前にはなかったから、男が置いたのだろうとの見当はつく。問題は、なんのために、ということだった。 膝上に引き寄せ、一枚一枚広げて持ち上げて見た。 格子・無地・柄物……全部で六枚。織り目の密度にばらつきがなく、染めもしっかりとしてムラがないことから、高価な品であろう。
何言ったって聞きやしないなら、おれが目を配って守るしかない。 自分の命だっていうのに、なんだっておれの方が心配してやらなきゃいけないんだか。わがままに腹は立つが、死なれるよりずっとマシだ。 本気だぞと睨むハリに、馬上のレンジュは、まさかそんな手に出るとは思わなかったと目を丸くすると、次の瞬間くすっと鼻を鳴らして大仰に肩をすくめてみせた。「それはこわいな。おまえに見放されたら、おれなんかすぐ死んじまうんだろうから」「ああ、そうとも!」 胸を張って肯定するハリに、ぷっと吹き出す。「ははは。 わかったよ。絶対おまえの前には出ない」「休みもとれ!」「とるよ、とる」 よし、と頷いたハリが手綱から手を放して自分の馬へ戻ろうとしたとき。ふっとレンジュの手綱を持つ手から力が抜けた。それと気付いて見上げたハリの前で、うっすらと笑む。「ハリ。もしおれの暴走を心配してるなら、無用だよ。おれは死ぬ気はこれっぽっちもないから。 すごく苦しいけど、でも、死ぬことの方がもっと辛くてやりきれないって、ちゃんとわかってる。 安易に死を望んだりはしない。誓うよ」 静かな声だった。力みも諦めもない、今日の天気についてでも話すような声。「……ああ、そうだなっ」 申し合わせたように互いの掌を叩きあわせ、ぱんっと軽快な音をたてた後。気がかりが払拭された面でハリは自分の馬に戻った。 そう。死ぬわけにはいかない。 ハリが横に並ぶのを待つ間、レンジュは己が口にした言葉の正しさを確認する。 死んでしまったなら、もう彼女を見つめることさえできなくなる。 愛されなくていい。自分に愛される資格がないことは、最初からわかっていたことだ。一生、触れられなくていい。そばにいてくれさえすれば。彼女を失う以上に辛いことなどありはしない。だから、どんなに辛くとも堪えられないはずがない。 死ぬために戦うんじゃない。ただほんの一時、この苦しさをまぎらわせるために、自分は戦うのだ。
レンジュは違う。そりゃ性欲とは無縁そうな、柔和でさわやかな顔立ちをしているし、貴族の子息としての教育を受けているから戦場で生まれ育った輩よりずっと物腰は柔らかで、常に道徳的な思考が基礎としてあるので女ウケがいい。そのくせ腕がたつとあれば、端女たちが騒ぐのも無理ないだろう。布や装飾品をふるまったりしているわけでもないのに、朝見送りにくる女の数も相当なものだ。 だが表面上はどうあれ、激烈な熱情を内に持ったやつだ。 無頓着で、あまり物事に執着しないが、一度執心するといつまでもそれについてこだわっているし、独占欲も激しくて、負けず嫌いで粘着気質という、見かけとは全然似つかない気性の持ち主。 そんな健全な若い男が、好きな女と同じ天幕で寝起きをともにし、愛されていないことを毎日毎日見せつけられながら暮らすなんて、地獄以外の何物でもない。しかもレンジユには彼女をどう扱ってもいい権利がある。買われた女に男を拒む権利などないのは常識で、主の意向に反抗するなどもってのほかだ。彼女を無理矢理我が物としようと、誰も何も言わないし、当然のことと思うだろう。レンジュにはその行為をとることが許されている。 だから、まさかレンジュが彼女の意志を尊重するあまり、今だ手も握っていないなど、思いもよらないだろうし、そうと言われても信じる者など皆無に決まっている。 ハリ自身、その状況を自分に置き替えてみて、手を出さずにいられる自信などなく、どこからその忍耐はきているんだと感心せずにいられない。 誰もレンジュが苦しい片恋をしていることを知らないから、レンジュの行動の異常さがそこにあるなど考えもしない。「冬支度用にと予定していた金がなくなったから」なんて白々しい嘘をそのまま鵜呑みにしているのはよっぽどおめでたい馬鹿だけで、男たちの大半は『しょせん人事』と思っているから何も言わないのだ。だから、レンジュの様子が目に見えておかしかろうと、「替わろう」とは提案しない。「休んだ方がいい」とも。 無性に腹立たしかった。仲間に無関心な彼らも、レンジュの役に立てない自分も。「おまえ、今日は残ったらどうだ?」 言ったところで無駄だろう。そう思いながらも、ハリはつとめて明るい声で提案を
翌朝、隊は昨日までとは違う空気に包まれていた。 どの天幕の前も夜明け前から火がともり、下女も端女も世話女も湯を沸かしたり馬の世話をしたり鎧を磨いたりなどをして、あわただしく走り回っている。男は長剣や短剣、鉄槌、矢じりといった武具を研いだり調整に余念がない。 なぜなら、昨夕偵察に出ていた若者から、前方に敵軍歩哨発見との報が入ったからである。 それはアーシェンカの市を抜けた隊の行程を読んだ上での待ち伏せに違いなかった。 今日の移動で見晴らしのきいた安全地域を抜け、足場の悪い山岳地帯に入る。隊列が伸びるし死角も増えることから、狙ってくるならここだろうとの予想はついていたため、とりたてて騒ぐ者はいなかった。 今回目をつけられたのはこの隊だった。運がなかった、それだけだ。「ここが現在地。敵軍が布陣を敷いているのはここから直線にして五百ゼクターノンほど先だ。そこから目と鼻の先におれたちの進路の水の枯れた渓谷があるんだが、ほぼ中間位置に、上からしかけるには絶好の岩棚がある。 すぐ横の斜面は岩の隆起も多く、下からの弓を避けながら下りれないこともない。さすがに馬は無理だが。 襲撃を受けるとすれば、まずここだろうな」 小休憩中、集合をかけた小隊長たちの面前で、副隊長の一人・シュランが地図の一点を指で弾きながら説明をした。「このあたりは馬車が反転するのも難しいくらいの幅しかないから、襲撃は後ろと左右の三方からだろう。まず後ろから騎馬兵が声を上げて現れる。敵の出現にあわてて反転しようとしたところへ弓で矢の雨を降らせ、混乱させたところへ左右の歩兵が崖を下る――まあそんなとこか」 異論はあるか? と小隊長を見渡した目が隊長のゼガスで止まる。 どうやら彼は前夜世話女に切らせた前髪に不満を持っているようで、果物ナイフを片手に調整の真っ最中だった。 自分へと集中した視線に、意見を求められたことに気付いたゼガスはきまりの悪さをごまかすよう咳払いを一つして簡易イスから身を起こし、地図上に手をついた。「接敵が避けられない相手なら、なにも襲撃を待つ必要はない。場も時もお膳立てしてやれば、主導権はこち
マテアが男の天幕で寝起きするようになってから、五日がすぎようとしていた。 その間マテアがしていた事といえば、移動の間をぬって洗濯に針仕事に掃除。(食事の支度である薪集めや水くみ、材料の配布とかは端女や下女の仕事で、火を扱えないマテアにかわってレンジュの食事はユイナが作ってくれている)天幕を張ったりたたんだり、荷物を整理したり広げたりというようなことで、本来の目的の方はといえば、全く進展がない。 進展させようにも男は夜が明けるずっと前に天幕を出て、夜中すぎまで戻らないのだ。 昼間どこで何をしているか、マテアは知らない。夜しか接触する時間はないというのに、マテアは昼の仕事ですっかりくたびれて、戻ってくるのを待っていられないのだった。 いつの間にか眠りこんで、気がつけば朝だ。夜明け前、ユイナに起こされ目を開いたとき、もう男はいなくなっている。 くやしくて、本当にくやしくて。 今夜こそ、とマテアは思う。 見たことはないけれど、あの男だって寝ているはずだ。起きたとき、敷物の上に横たわっていた跡がある。そうして眠っているときは、あの見るだけですくんで動けなくなる剣だって、手元から離しているはず。 今夜は絶対に眠らない。 マテアは固く心に決めて最後の一口を飲み下すと、椀を持って天幕の外に出た。決意を悟られてはいけないから、いつものように椀は地に伏せる。天幕の入り口近くに焚かれた火に水をかけ、踏み散らして天幕囚へ戻り、被り布を上掛けにして横になった。 頭を枕につけた途端、ひたひたと寄せる波のように去来する睡魔に何度欠伸を噛み殺したか。そうしても男は帰ってこない。体が重くなってきて、今夜もあきらめるしかないかと思いかけたとき。仕切り布が上がる気配がして、外の冷気が前髪を震わせた。 がちゃりと金属同士が擦れあう音が入り口付近でする。薄目を開けてそちらをうかがうと男が腰の留め金を外し、剣を敷物の下に敷きこんでいるのが見えた。 今までああしていたのか……五日前と比べ、天幕内に漂う死臭は格段に薄れている。いくら疲れきっていたとはいえ、どうりで存在に気付かず眠り続けていられたは
あの男はわたしから<魂>を奪ったのに。とり返そうとしているわたしをそばに置いて、一体何の利があるというの? わからない。だいたい、出会い頭にひとの<魂>を強奪するような盟の考えることなど、わかるものか。 わからないけれど、でもこれは好機だった。 行方がわからなくなったと思っていた男が近くにいる。あるかどうかもわからない手掛かりを求めて市まで戻ったり、どことも知れない地を無意味に歩き回る必要がなくなった。 言葉が通じない以上説得は無駄だし、返す気があるなら昨日のうちに返してくれていたはず。男に返す気がない以上、自分の手でとり返すしかない。近くにいれば必ず隙ができるだろうから、そのときを狙えばいい。 一筋の光明も見出せない冥府のように思われた居場所が、一夜明けて、実は絶好の場所であることを知ったマテアは意気込んだが、それも数秒のこと。男が出て行ってもまだ天幕内でくゆっている、胸のつまりそうな死臭に眉を寄せたマテアは、それがどれほど難しいことか考えて、溜息をもらした。 何を指差していたのだろう? 男が天幕を去ってしばらくしてからそのことを思い出し、箱のそばへ寄った。 黒ずんだ古い木製の箱だ。板の継ぎ目を漆でふさいで密封を強化してある。何か細工があるのではと用心しながら開けると中には袋が三つ入っており、一つには茶色の粒が、他の二つには干し肉と草がそれぞれ入っていた。 これをどうしろと? 覗きこんだまま途方にくれていたら、『ああ、もう起きてたのね』とユイナが中へ入ってきた。『どうかしたの?』「ユイナ。あの、これ……」 おずおずと指差した箱の中を覗きこんだユイナは、ああと声を上げる。『なんだ、それならこれよ。ほら』 にこにこ笑い、手に持っていた椀を出してきた。椀の中には汁気をたっぷりとすって糊のようになった茶色の粒と、大量の葉が入っている。粒三に葉が七という割合からみて、葉の方がメインで粒はつなぎといった感じだ。 す







